大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の28回目では、梶原景時の変が取り上げられた。今回は、変が勃発した背景について、詳しく掘り下げてみよう。
建久10年(1199)1月、源頼朝が亡くなった。頼朝は東国の御家人にとってカリスマでもあり、鎌倉幕府を主宰する独裁者でもあった。頼朝の死は、その後の政治に大きく影響を与えた。
頼朝の後継者は、嫡男の頼家が引き継いだが、まだ若く未熟だった感が否めない。また、頼家を支える御家人間(北条氏と比企氏)では、少なからず暗闘があった。同時に、彼ら御家人は、訴訟裁定について合議機関の手に委ねようと考えていた。
こうして設置されたのが「13人の合議制」で、その面々は大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛だった。
この中で抜き出たのが北条一族である。北条時政は子の義時だけでなく、頼家の母の政子を巻き込んだ形で不動の地位を保とうとした。また、時政は大江広元に接近し、着実に地歩を固めていった。
■梶原景時の特異性
一方、有力御家人の1人の梶原景時は、治承4年(1180)の頼朝挙兵以来、厚い信頼を置かれていた武将だった。景時は頼朝の側近として、普通の御家人とは違った立場にあった。
景時は非常に要領がよく、弁舌がさわやかで、豊かな教養を持っていた。こうした景時の存在は、ほかの粗野な性格の御家人にとっては、忌避するところだったに違いない。源義経との確執は、その一つであろう。むろん、景時のトラブルは、ほかにもあった。
壇ノ浦の戦いで、夜須行宗という武将が軍功を挙げた。行宗が恩賞を願った際、景時は「行宗などの名前は知らない」と言ったので訴訟になった。しかし、行宗には証人がいたので、景時は訴訟に負けたのである。
文治3年(1187)、畠山重忠が地頭を務める伊勢国沼田御厨(三重県松阪市)で、代官が狼藉に及んだ。いったん重忠は罪を問われたが、のちに頼朝は許した。
ところが、重忠は罪を恥じて、武蔵国菅谷館(埼玉県嵐山町)で一族とともに逼塞した。これを知った景時は、「重忠に謀反の意あり」とみなした。これも、景時の讒言である。
景時は重忠に起請文を差し出すよう要求したが、結局、頼朝はこれを許したという。とはいえ、御家人の景時に対する評判は、ガタ落ちだったに違いない。
■むすび
ここまでの景時の行動は、頼朝の意向もあって、さほど問題にならなかったようである。しかし、頼朝の死後はそうでもなかった。景時の態度に憤懣やるかたない御家人は多数いたのだ。
正治元年(1199)10月、朝光は亡き頼朝の思い出を語り、「忠臣は二君に仕えずというのだから、出家すべき」だったと述べ、世情が穏やかではない旨の発言をした。これは考えようによっては「頼家には仕えたくない」とも取れる発言なので問題視された。
朝光の発言を問題視したのが、景時だった。景時の意図は不明であるが、さすがに御家人たちは黙っていなかった。ついに、堪忍袋の緒が切れ、景時を激しく糾弾たのだ。こうしてはじまったのが梶原景時の変であるが、その顛末は明日掲載することにしよう。