<参照・引用/歴人マガジン> 2022.1.20 小林 勝

【鎌倉殿の13人】

聖地巡礼 源頼朝と北条義時が挙兵した伊豆

 鎌倉殿の13人の舞台となる源頼朝と北条義時の挙兵の地へ(前編)

  (文・上永鉄矢/歴史随筆家)

 

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の始まりを飾る舞台は、鎌倉ではない。それは源頼朝と北条氏が「平家打倒」の兵を挙げる前に足跡を宿した静岡県の伊豆半島だ。そこで今回は大河ドラマ序盤の舞台として注目が集まるであろう「北条の里」を訪ねてみた。

伊豆半島は「平治の乱」で敗れた源頼朝が流刑 るけい に処され、平家の家人・伊東祐親の監視もとで流人生活を送っていた場所だ。古来、伊豆は中央政府から隔離しやすく、罪人が流される僻地 へきち として扱われてきた。

 

最初に注目したいのが、頼朝が20年あまりもの間、ひっそりと暮らしていたといわれる「蛭ヶ小島 ひるがこじま」だ。『吾妻鏡 あずまかがみ、あづまかがみ、東鑑。鎌倉時代に成立した歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍の宗尊親王まで6代の将軍記。』には流刑地は、単に「蛭島」と記されているだけで、その正確な場所まではわかっていない。それに「島」といっても、周辺より多少盛り上がっているという程度の意味で、実際には島ではない。ただ、昔からこの地がそのように呼ばれ、まわりに北条氏の館や、ゆかりの寺社が点在することからも、このあたりで暮らしていたのは間違いないようだ。

  

周辺は公園化され、2004年には富士山を望んで立つ頼朝と北条政子の像が完成している。ここから東へ2Kmほど山中に入ると、頼朝が夢のお告げにより建立したという毘沙門堂もある。その山門にある金剛力士像は運慶作と伝わっていて、そこが鎌倉時代の建立であることを示してもいる。

 

さて、その「蛭ヶ小島」から、南西へ20分ほど歩くと「北条の里」と呼ばれるエリアに着く。ここは、「守山」を中心とする北条氏の史跡の宝庫だ。伊豆の国市内を南から北に流れる狩野川。その東南に守山がある。北西部のふもと、狩野川のほとりが小さな谷になっており、ここがかつての北条氏の館があったところだ。

 

平成の初めに行われた発掘調査では、平安時代末から鎌倉時代初めにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、ここが北条氏の邸宅跡であったことが裏付けられた。北条時政やその息子の義時や姉の政子が暮らし、時に頼朝も訪れたのだろう。のちの1333年、鎌倉幕府が滅亡した後には北条一族の妻子らはこの守山の北条邸へ逃れ、円成寺を建立。北条氏の冥福を祈ったそうだ。跡地からは、その円成寺の池や溝が見つかり、中国製の陶磁器やかわらけ(宴会用の食器類)、小さな水晶製の宝珠が見つかっている。どこか謎めいたところがある邸宅跡だ。

 

北条氏邸跡から少し東に行ってみると、民家の門脇に「北条政子産湯の井戸」と呼ばれるものがある。石造りの井戸で、覗き込むと底には今でも水が溜まって(貯まって)いる。地元では、昔から妊婦がこの井戸水を飲んで安産を祈願してきたという(現在、この井戸は飲用ではない)。井戸自体の造りは江戸時代のものとされ「政子産湯」というのは創作の可能性も高いが、この周辺も北条氏邸の一部であったことは間違いない。保元2年(1157年)に生まれた北条政子の出生地は、このあたりなのだろう。

 

この守山の麓を南側へと回り込んだところに、眞珠院がある。この境内には、頼朝の最初の妻といわれる八重姫を供養する「八重姫御堂」(静堂)が建っている。

 

この伊豆での幽閉生活で、頼朝は政子と結ばれる以前に、伊東祐親 いとうすけちか の娘・八重姫と恋仲になり、一子をもうけている。祐親が大番役で上洛している間に二人は親しくなり、子供が出来てしまったという。

京から帰ってきた祐親は驚き、二人の仲を引き裂く。監視下に置いている頼朝が自分の娘に手を出したことが許せなかったというよりも、それが平家にバレでもしたら一族の命運が危うくなるからだろう。一説に、生まれた子供は祐親に殺されてしまったという。

その後、八重姫は北条氏邸に逃れた頼朝を追ってこの地まで来たが、頼朝はすでに政子と結ばれていた。失意の八重姫は、眞珠院の前を流れていた真殊ヶ淵に身を投げたという。先の「八重姫御堂」は、哀れな最期を遂げた彼女を弔うために建てられたものだ。御堂内には、八重姫の小さな木像、供養塔が置かれ手厚く祀られている。

 

そこから少し北、守山の東側にあるのが「願成就院」(がんじょうじゅいん)である。ここは北条時政が自邸の近くに建立したものでもので、1189年に源頼朝の奥州平泉攻めの成功を祈願して建立されたと『吾妻鏡』にもある。全盛期には広大な敷地を有し、多くの堂宇や巨大な池も擁していたが、延徳3年(1491年)、北条早雲による伊豆討入りでほとんどの堂宇が焼けた。現在の建物は末裔の北条氏貞が再建したものだ。

 

ただ、寺宝は消失を免れ、現存するものも多い。最大の見どころは大御堂に祀られた運慶作、国宝五 仏像群だ。阿彌陀如来像、不動明王・吟 童子・制 迦童子三尊立像・・・。力強い木札には文治二年五月三日から作り始めたと檀越は北条時政、巧師は匂当運慶とはっきり記されており、正真正銘のものであることがわかる。写真ではお見せできないので、ぜひご自身の目で確かめてほしい。

 

最後に、その近くに鎮座する守山八幡宮を。頼朝が以仁王の令旨に応じ挙兵、「平家打倒」の戦勝祈願をしたところだ。治承4年(1180年)8月15日、頼朝は流人生活を終え、5年に及ぶ平家討伐へ乗り出すわけだが、その第1歩の地ということが出来よう。大河ドラマで、ここに大勢の武士が集まり。源氏の幡がはためくシーンが描かれるはずだ。

 

『鎌倉殿の13人』の舞台は平安末期から鎌倉時代の初め。源頼朝が伊豆に流されてから平家打倒の兵を挙げ、鎌倉幕府の成立後に起こる一大事件「承久の乱」あたりまでが舞台となる。次回以降でも、その舞台となる地を紹介していきたい。